あっちゃー!の覚悟。の巻

先日、めずらしく京都駅まで自転車で行く機会があり、22時前の鴨川沿いをシャーっと南下していた。


そしたら、四条大橋の下で抱き合うカップルがあり、ははぁ、こりゃ道ならぬ恋だな、と思って、んだども「道ならぬ」の「道」っていうのは誰かの決めた道で、それを外れたからといって他人にどうこう言われる筋合いはまったくなく、結局てめーの道はてめーで決めるしかない。
誰かの道を歩いたり車で飛ばしたりしても事故に遭うときは遭う。
そのときに道を決めた「誰か」が責任をとってくれるわけでも、すまんかった!と謝ってくれるでもないのだから、せめて自分で決めた道を行って、事故に遭ったら、あっちゃー!の覚悟を常に持っていなくてはならないのだろう。


って、そんなことより、というほど大事なことではない。
というか、「そんなこと」ランキングでは非常に近接していることだけど、時間軸の超え方の話。


その抱き合うカップルを見て、昔は戦に向かうために、命を捨てる覚悟を胸にこの道を歩いた人がいたのだなぁ、と、あたしゃ思った。
石像と「龍が如く 見参」をやったばかりだったから。


そして、この想像は、松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句と原理的には同じじゃないか、とぶっ飛ばした。
というのはどういうことかというと、何を見て過去の風景の無常さを感じるか、ということで、芭蕉は「夏草」。僕は「抱き合うカップル」。
要するに僕が詠んだら、


カップルや 兵どもが 夢の跡」


となるってわけ。


とはいえ、「カップル」にかなり時代性・人物性があり、芭蕉の「夏草」の普遍性とは、けっこうかなり隔たりがある。
なら自然を当てはめるとして、しかし「夏草」だと、僕が詠むには格好よすぎて恥ずかしい。
せいぜい「交尾するトンボ」とか、「香る糞」とか、なにかしらの間抜け要素を入れないと、やってらんないと思う。


ただ、僕が「夏草」と言ったところで格好よくはならず、松尾芭蕉の器の大きさを思い知らされるばかり。


などと思索に耽ってボケーっと自転車をこいでいても人やものと衝突しなかったのは、時刻が遅くてあまり人やものがいなかったから。
いまの時刻はたいへんな人やものの賑わいだから、衝突するか思索を止めるかしか選択肢はない。
と思わせておいて、俺はいま衝突も思索もせずに生きている。
お昼にはラーメンをいただいた。おいしかった。
ざまぁみろ!


藤谷☆ゆーた