自分ラバーの駄暮。の巻

うわっ、こいつかなんなぁ。なんちゅう自分本位な行動原理。
でも許しちゃう。愛しちゃう。
ときどきちょっと嫌やけど、その嫌っちゅうのは、いちよーバランスとっとこか、ぐらいの嫌でホンマのホンマに嫌なんとは全然ちゃう。

そんなにキュートなのは、それが自分その人であるから。

皆が皆そうかと言えば、そんなことはなさそうだと思うが、また、そんなもんな気もする。

本当の本当に自分が嫌だー!と思っている人も、その「本当の本当に嫌」な状態でバランスをとっていたりして、そういう人こそ本当の本当は自分のことを愛しまくっていて、かえって周りの人を顧みない自分ラバーだったりもする。

自作の曲を唄う作曲家などはその際たるものである。
でないと、自分の中にある感情・思念を吐露して人様に披露などしない。そんなことをするのは徒労で疲労だからさ。どう?この俺のブライトなライムは?どう?
また、作曲家は非常に極端な価値観で、「個人的なことは普遍的なものなのだ」などとうそぶいている。

小沢健二が「さよならなんて云えないよ(美しさ)」で唄っている。

 「左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる 僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」

 「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると そして静かに心は離れてゆくと」

 「いつの日か oh baby 長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめるのか?と 
  高い山まであっというま吹き上がる 北風の中 僕は何度も何度も考えてみる」

まぁ二十歳ぐらいになるとだいたい、何事にも終わりがあって、それを認めていながら、それでもなにやら「永遠なるもの」を求めて「これがそうだ!」と見つけた気になり、でも何事にも終わりがあることを知っているから、本当にそうかな?と思いながら、終わるまで「永遠っぽく感じたもの」を続けていくものです。
そんな普遍的なことを、個人的な描写をしながら唄っているのです。
その「これがそうだ!」の刹那の美しさと、本当は終わることを知っている裏腹な感情を綺麗に描いていますね。(寸評)


岡村靖幸が「だいすき」で唄っている。

 「君が大好き あの海辺よりも大好き 甘いチョコよりも
  こんなに大事なことはそうはないよ
  君が大好き あの星空より大好き 赤いワインより
  女の子のために今日は歌うよ」


これも瞬間をとてもうまく切り取っています。
「こんなに大事なことはそうはないよ」って、「そうはない」けど「まぁ、ある」ということです。
さらに、海辺よりも、甘いチョコよりも、星空よりも、赤いワインよりも大好きって、そのぐらいのものってやっぱり「まぁ、ある」ことです。「君が大好き」な瞬間、でもやっぱりそれが終わるのを知っているから、「海辺よりも大好き」とか「甘いチョコよりも」と表現しているのです。
で、大好きと言われる「君」だって、まぁたぶん成人しているだろうから何事も終わってしまうことを知っていて、だからこの表現にある「本当のこと」の「誠実さ」に感動するでしょう。きっと。

こうして見ると、しかしまぁ、実際に個人的なことは普遍的なものたりうると思った。思ったぞ。おいは。

思ったのは、それはおいが自作の曲を唄う作曲家で自分ラバーの駄暮だからったい。

とはいえおいの歌詞が普遍的かというと、まったくそんなことはなく、昨深夜にノートにしたためた歌詞はというと、

「五月雨止んだら あらあら、乱れて
 コンデンスのミルクで あっはっはのえっへっへになって踊るのです
 See how they fly. I'm crying.」

などというものでわけが分からない。

これはもっともっと自分ラバーの加減をよっこいしょして、自分ラベストぐらいにならにゃあいけんのぉと思う所存であるから、皆さまにおかれましてはたいへんなご迷惑かと思いますが、どうか暖かい目で優しく見守ってください。


藤谷☆ゆーた